先月の3連休に「永遠のゼロ」の映画を見てきました。
やっこが映画を見るのは珍しいことなんです。
しかも戦争映画は嫌いなので、ほとんど見ないのですが、
家にある百田尚樹さんの本を読んでいたのと、
この作品はなんとなく母方の祖父を彷彿させるような
ストーリーであったため、見てみたいと思ったのでした。
これまでに見た戦争映画は、どちらかと言うと
お国のために死ぬことが
美化される作品が多かったのですが、
「生きる」ことの大切さを説いた
ストーリーだったからでしょうか。
一昨年のリフォームのとき、
本棚から茶封筒に入った祖父の手記が出てきました。
戦友会の広報紙に 掲載してもらった 手記を
子供や孫たちに 配っていたものでした。
ぎっしりとA4に8ページにわたって書かれた
「暴れん坊将校今こそ語る」という手記。
たぶん30数年以上前に書いたものだと思われます。
実はリフォームの時までこの存在をずっと忘れていました(^^ゞ

改めて手記を読むと祖父の若い部下たちを想う気持ちが
よくわかります。
祖父は、陸軍大尉でした。あくまでも人道派。
曲がったことが大嫌いで、理不尽なことを言われると
上司であっても立ち向かう人でした。
上の命令が必至の軍隊で「カラスが白い」と言われたら
「ハイ、そうであります」と言うのが当たり前だったのに
それは違う、とはっきりモノを言っていたらしいです。
理不尽なことで命を無駄にしてはいけないと
いつも考えていたからだと祖父は語っていました。
そんな祖父は、理不尽なことを言う上官にとっては
目の上のたんこぶ、
しかし部下には頼りになる人物だったようです。
手記にはいろいろな暴れん坊将校ぶりが
紹介されています。
日本の戦局が逼迫している中、
祖父は広島の宇品で起動輸送艇の隊長をしていました。
輸送艇のエンジンの調子は良くなく、
燃料も粗悪で出航したとしても
海上で立ち往生し米軍の潜水艇に沈没させられるのが
目に見えているのに、出航せよと言う命令が下り・・・
(手記の中での上官とのやり取り )
「時局は小官(祖父)もよく認識している筈だが、
この大切な父親、息子を海の藻屑にしてしまうことがわかって、
貴官の内命に従えるか!! 貴官はもはや参謀ではない。
無謀、横暴、乱暴の三謀だろう。」
次の日、辞令が出て異例の特攻送りとなり鹿児島へ。
そのあと間もなく広島に原爆が落とされ
特攻を待機していたところ、終戦を迎えました。
祖母と母の兄弟4人は祖父の任地、広島に住んでいましたが
祖父が特攻隊へ送られたため、命からがら
実家のある三重県へ戻ったそうです。
そして1週間後に広島に原爆が落とされました。
母の話だと、原爆ドームのあったところは
いつも遊んでいたところだったとか。
数奇な運命によって家族全員が
無事に終戦を迎えることができたのです。
祖父は終戦後、広島以外にも
それまでいた任地(東京、大阪、京都)を訪ね、部下たちの
安否を調べています。
祖父は、戦後高校の教師として教壇に立ちます。
祖父の葬儀の時に広い庭のあちこちで
教え子の皆さんがクラス会のように集まって
祖父を見送ってくださいました。
教師時代、生徒たちを家に呼んで飲食させたり、
片親家庭の生徒の父親代わりとなって面倒を見たりと
決して自分たちも裕福ではなかったのに
お世話をしてきたと、祖母がいつもこぼしていました。
そんな祖父を「頑固爺さん」とか呼んでいましたが、
すばらしい祖父だったと手記を読み思い返している今日この頃です。
長文を読んでいただきありがとうございます。

やっこが映画を見るのは珍しいことなんです。
しかも戦争映画は嫌いなので、ほとんど見ないのですが、
家にある百田尚樹さんの本を読んでいたのと、
この作品はなんとなく母方の祖父を彷彿させるような
ストーリーであったため、見てみたいと思ったのでした。
これまでに見た戦争映画は、どちらかと言うと
お国のために死ぬことが
美化される作品が多かったのですが、
「生きる」ことの大切さを説いた
ストーリーだったからでしょうか。

一昨年のリフォームのとき、
本棚から茶封筒に入った祖父の手記が出てきました。
戦友会の広報紙に 掲載してもらった 手記を
子供や孫たちに 配っていたものでした。
ぎっしりとA4に8ページにわたって書かれた
「暴れん坊将校今こそ語る」という手記。
たぶん30数年以上前に書いたものだと思われます。
実はリフォームの時までこの存在をずっと忘れていました(^^ゞ

改めて手記を読むと祖父の若い部下たちを想う気持ちが
よくわかります。
祖父は、陸軍大尉でした。あくまでも人道派。
曲がったことが大嫌いで、理不尽なことを言われると
上司であっても立ち向かう人でした。
上の命令が必至の軍隊で「カラスが白い」と言われたら
「ハイ、そうであります」と言うのが当たり前だったのに
それは違う、とはっきりモノを言っていたらしいです。
理不尽なことで命を無駄にしてはいけないと
いつも考えていたからだと祖父は語っていました。
そんな祖父は、理不尽なことを言う上官にとっては
目の上のたんこぶ、
しかし部下には頼りになる人物だったようです。
手記にはいろいろな暴れん坊将校ぶりが
紹介されています。
日本の戦局が逼迫している中、
祖父は広島の宇品で起動輸送艇の隊長をしていました。
輸送艇のエンジンの調子は良くなく、
燃料も粗悪で出航したとしても
海上で立ち往生し米軍の潜水艇に沈没させられるのが
目に見えているのに、出航せよと言う命令が下り・・・
(手記の中での上官とのやり取り )
「時局は小官(祖父)もよく認識している筈だが、
この大切な父親、息子を海の藻屑にしてしまうことがわかって、
貴官の内命に従えるか!! 貴官はもはや参謀ではない。
無謀、横暴、乱暴の三謀だろう。」
次の日、辞令が出て異例の特攻送りとなり鹿児島へ。
そのあと間もなく広島に原爆が落とされ
特攻を待機していたところ、終戦を迎えました。

祖母と母の兄弟4人は祖父の任地、広島に住んでいましたが
祖父が特攻隊へ送られたため、命からがら
実家のある三重県へ戻ったそうです。
そして1週間後に広島に原爆が落とされました。
母の話だと、原爆ドームのあったところは
いつも遊んでいたところだったとか。
数奇な運命によって家族全員が
無事に終戦を迎えることができたのです。
祖父は終戦後、広島以外にも
それまでいた任地(東京、大阪、京都)を訪ね、部下たちの
安否を調べています。
祖父は、戦後高校の教師として教壇に立ちます。

祖父の葬儀の時に広い庭のあちこちで
教え子の皆さんがクラス会のように集まって
祖父を見送ってくださいました。
教師時代、生徒たちを家に呼んで飲食させたり、
片親家庭の生徒の父親代わりとなって面倒を見たりと
決して自分たちも裕福ではなかったのに
お世話をしてきたと、祖母がいつもこぼしていました。
そんな祖父を「頑固爺さん」とか呼んでいましたが、
すばらしい祖父だったと手記を読み思い返している今日この頃です。
長文を読んでいただきありがとうございます。
最終更新日 : -0001-11-30
* by のんき
心に残るお話を伺うことができました
何が善で何が悪なのか、理不尽なことが、まかり通る時代に、信念を通されたおじい様ですね
「誰でも良かった」と言う犯罪記事の多い今の世の中。私も含め、戦争を知らない世代だからこそ、この時代の出来事を、自分の中で消化し、戦争がない幸せな世の中が、いかに大切な事なのか。また、この時代があって、今の時代に繋がって来ている事を改めて思ういい機会となりました
何が善で何が悪なのか、理不尽なことが、まかり通る時代に、信念を通されたおじい様ですね
「誰でも良かった」と言う犯罪記事の多い今の世の中。私も含め、戦争を知らない世代だからこそ、この時代の出来事を、自分の中で消化し、戦争がない幸せな世の中が、いかに大切な事なのか。また、この時代があって、今の時代に繋がって来ている事を改めて思ういい機会となりました
* by やっこ
☆mcnjさんへ
そうです。mcnjさんのブログを読んで
もしかしたら出会っていたかもしれないなぁと思ったのです。
どことなくよく似たもの同士のような気がして・・・
お互いに亡くなった後でブログでこんな話題が出るなんて
何か不思議なご縁のような気がしています。
☆ルミちゃんへ
お国のために命を散らすことが
美徳とされた時代でしたが、
やはり生きていることのほうが
絶対に価値があったと思います。
人間同士が殺しあう戦争は絶対に反対。
言葉で分かり合える動物なのですから!!
お隣の国々は戦争の怖さを忘れてしまってるのかなぁ?
そうです。mcnjさんのブログを読んで
もしかしたら出会っていたかもしれないなぁと思ったのです。
どことなくよく似たもの同士のような気がして・・・
お互いに亡くなった後でブログでこんな話題が出るなんて
何か不思議なご縁のような気がしています。
☆ルミちゃんへ
お国のために命を散らすことが
美徳とされた時代でしたが、
やはり生きていることのほうが
絶対に価値があったと思います。
人間同士が殺しあう戦争は絶対に反対。
言葉で分かり合える動物なのですから!!
お隣の国々は戦争の怖さを忘れてしまってるのかなぁ?
* by ルミ
一週間後原爆が落ちたことなどを考えると、
皆さんが無事で生き残られたのは素晴らしいことですね。
本当に良かった。
うちにもやはり軍部で生きた人、シベリアに抑留された者や、
満州にいた者、戦争なんてまっぴら御免仮病で帰ってきた人…
色々います。どれも生きるために必死。
平和が一番、と、分かっていたんだと思います。
内心では。
先日押し入れで発見された祖父のアルバムでは、
古いのでは日露戦争の頃から始まり、日常に戦争の色が混ざるのが
ページをめくる度に分かりました。
これからも戦争にならないように、
息子を戦争に送らないように、
私たちが平和を守らなきゃいけないですね。
皆さんが無事で生き残られたのは素晴らしいことですね。
本当に良かった。
うちにもやはり軍部で生きた人、シベリアに抑留された者や、
満州にいた者、戦争なんてまっぴら御免仮病で帰ってきた人…
色々います。どれも生きるために必死。
平和が一番、と、分かっていたんだと思います。
内心では。
先日押し入れで発見された祖父のアルバムでは、
古いのでは日露戦争の頃から始まり、日常に戦争の色が混ざるのが
ページをめくる度に分かりました。
これからも戦争にならないように、
息子を戦争に送らないように、
私たちが平和を守らなきゃいけないですね。
* by mcnj
おはようございます。
良いお話を聞かせていただきました。
長井先生のところで触れておられたのは、この、祖父君のことだったのですね。
長井先生が、特高待機中に終戦になって、一命をとりとめたのと、同じ時期に、知覧にいらっしゃったのですね。
もしかしたら、お会いになっていらっしゃったかもしれませんね。
本当に。
人間の運命と言うものはわからないものです。
長井先生もそうですが、祖父君も、生きながらえたことを痛恨だと思いながら、その後の人生を通じて、世の中のために尽して生きられたのだと思います。
恩を受けた我々は、次の世代に、恩返しをしていかねばなりません。
良いお話を聞かせていただきました。
長井先生のところで触れておられたのは、この、祖父君のことだったのですね。
長井先生が、特高待機中に終戦になって、一命をとりとめたのと、同じ時期に、知覧にいらっしゃったのですね。
もしかしたら、お会いになっていらっしゃったかもしれませんね。
本当に。
人間の運命と言うものはわからないものです。
長井先生もそうですが、祖父君も、生きながらえたことを痛恨だと思いながら、その後の人生を通じて、世の中のために尽して生きられたのだと思います。
恩を受けた我々は、次の世代に、恩返しをしていかねばなりません。
祖父は鹿児島行きが決まってから
自分は死刑台に向かう罪人のように思えたそうです。
輸送艇に乗る兵たちの命を助けたのに
その兵隊たちは原爆で亡くなってしまい
自分だけが助かったのはとても申し訳なかったと
後々申しておりました。
・・・それぞれの物語があるのですね。